旧Twitterでつぶやいた中で、観た映画の感想などある程度の量になった文章をまとめ直していこうと思います。
ふたつめは2021年公開、杉田協士監督『春原さんのうた』。旧Twitterからだいぶ加筆修正しています。
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映画『春原さんのうた』を観た。
ここ数年、現代短歌を読むようになって、その世界の豊潤さ、瑞々しさに惹かれているところだったので、短歌が原作というこの映画はとても興味深かった。
原作となった短歌を収録した歌集『春原さんのリコーダー』(東直子、ちくま文庫)は先に読んでいた。
その短歌のイメージと、レズビアン映画であるという前情報だけで観たのだけれど、台詞がとても少なくて画面で静かに語る感じの、不思議な読後感の映画だった。
観終わってしばらくしてからじわじわ意味がわかってくるような、しばらくぼんやり思い返していたくなるような。
私は映像から意味を読み取るのが苦手な方だと思う。文字情報を頼りに世界を把握しているところがあって、だからどちらかといえば映画より文字で語られる漫画や小説の方が情報を処理しやすくて好きだ。
そんな私にとって『春原さんのうた』はあまり親切とはいえない映画だった。
何せ言葉での説明がほぼない。観る者への説明的な台詞は皆無といってよく、前後の文脈も関係性も語られないまま会話のシーンが始まり、語られないまま進んでいく。
通りすがりにたまたま耳に入った会話のようなシーンが続き、それをつなぎ合わせてやっとぼんやりと物語らしきものが浮かび上がってくる。
これから何かが起こる過程ではなく何かが起こった後、何かが喪われた後を見ているのだ、と理解するのにずいぶんかかった。半分以上は過ぎていたのではないかと思う。
しかし一旦そう了解してみると、何気ない日常のシーンの中で不意に顔を出す喪失感や、からりとしていつつも消えない哀しみのようなものが随所に垣間見える。
タイトルになっている春原さんは、劇中の時間には存在しない。それが喪われた後の主人公の日常の外側が映像として通り過ぎていくだけだ。
それなのに、観ているうちに春原さんの不在がくっきりとそこに「ある」ことが沁み込んでくる。主人公と主人公を取り巻く人たちが、春原さんの不在を中心にして何か大きな波を一緒に通り過ぎた後を見ているのだということがひしひしと感じられてくる。
不思議な体験だった。
原作になった短歌、
〈転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー〉
が収録された先述の歌集では、この歌の次に
〈夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした〉
という歌が来る。
読んだとき、この2首はセットというか続きものだろうなと思っていたのだけれど、鑑賞後にインタビュー記事を読んだら、監督自身が後者の歌を「裏の原作」と読んでいて納得した。
映画はどちらかというと後者の歌が喚起するイメージを映像にしたような感覚がある。映画っていろんなことができるんだと思った。
映画世界にも新型コロナが来ていて、みんながマスクをつけていることや、物を食べる時や写真を撮る時にマスクの着け外しの動作が入るのが、ストーリーと呼べるストーリーもないような映画の中で妙なリアリティを放っていた。
劇中で主人公が食べるナポリタンとどら焼きがおいしそうで、帰りにどら焼きを買った。
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「裏の原作」という話をされてる記事はこれ。
https://www.webchikuma.jp/articles/-/2649