ねこもり

ちょび髭ねこの日記

映画『リトル・ガール』感想

Twitterでつぶやいた中で、観た映画の感想などある程度の量になった文章をまとめ直していくシリーズ、2021年公開『リトル・ガール』。

 

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『リトル・ガール』を観た。

全編ひりひり痛くて観るのが苦しい映画だった。

トランスジェンダーの女の子サシャとその家族を追ったドキュメンタリー。

そこに同席してるみたいに繰り広げられる家族の会話や診察(いやカメラは実際に同席してる訳だけど)はこれを見ていいんだろうかという怖さを覚えるくらいの近さだ。

医師から理解と尊重を示されてやっとのようにサシャの目から溢れる涙がたまらなかった。子どもをあんな泣き方させてはいけない。
「女の子の服を着て登校していい」というたったそれだけを勝ち取るためにどれだけの時間とエネルギーが必要だったかと思うとこの先どれだけ……と途方もない気分になる。

実際その途方もなさを現在進行形で味わっている人がたくさんいるに違いない。自分自身でいようとするだけで負わなければならない苦労がたくさんある世界。

最後の方でサシャの母が「誰もが役割を持っていてサシャは周囲の意識を変える為にいる、私の役割はそれを手助けすること」という意味のことを語っていてそれがとても苦しかった。
サシャの苦しみをマジョリティの意識を変える教材にしてはいけない、感動ポルノのように消費されてよいものではない。

私はこの母の姿勢を支持しない。

けれどこういう形で人目に晒されなければ彼女はその存在を「認められる」スタート地点にすら立てない。認める認めないの問題ではないはずなのに。

 

きょうだい達も逆に心配になるくらい良き理解者で、そのことで抱える苦しみもあるかもしれないのにサシャの味方に徹する姿は痛々しかった。もちろんそうさせているのは社会の側なのだけど。

配慮を重ねて丁寧に作られた映画だと思うけれど、それ故にかドキュメンタリーという手法そのものの持つ侵襲性や残酷さや編集によって切り取られたものは何なのかというのが照射されてしまう作品だとも思った。
パンフレットではそのへんのパラドキシカルな問題にも触れられていて痒いところに手が届く、行き届いた作りだった。

というか作中にはけっこうヒヤヒヤする言葉遣いや断定的な言葉もあったりして、それだけを鵜呑みにしてしまうのはちょっと危うい感じもする。
これから観る人に親切でない意見だけれど、パンフレットまで読んで初めて完成する映画だと思う。