旧Twitterでつぶやいた中で、観た映画の感想などある程度の量になった文章をまとめ直していこうと思います。
2021年公開、岨手由貴子監督『あのこは貴族』。
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映画『あのこは貴族』を観た。
普遍的でありながらパーソナルな領域にも語りかけてくれる、「わたしのための」物語だと感じられる映画だった。
冒頭から淡々としつつ執拗に描かれる、華子を取り巻く家父長制社会と交換財としての女たち。
その価値観を無批判に取り込んで主体性を放棄したかのように婚活に励む華子と、自分の力で生きていくためにひとりでいる逸子が、グループの中でただ二人「行き遅れ」ている構図。
逸子が結び合わせた、華子の小さな世界に飛び込んできた異物としての美紀が、彼女の薄ぼんやりとして漂うばかりの自我を踏み固めていく。それでも「貴族」の世界は有無を言わさず彼女にモノであることを求める。
モノであることをやめようとした途端、平和な日常が檻と化す。
榛原家が家族で集まる時に揃って着ている紋付色無地や、姉妹それぞれに仕立てられたのだろう振袖、嫁入りに合わせて誂えらえたのだろう五つ紋の喪服など、ポイントポイントで現れる和服が「貴族」の世界を雄弁に語って呪いのように効いていたと思う。
トマトを育てたいという華子に返す幸一郎の台詞が、この二人の絶望的な溝や、幸一郎自身と彼の生きる世界の空虚さや華子が意識せずに目指しているものを端的に表している。
素晴らしかったのが、タクシーとチャリに代表される、乗り物の演出だ。登場人物たちの人生の岐路を表すのにこれ以上ないくらい効果的だったと思う。
子どもが欲しいかどうか考えたこともなさそうなのに義母から勧められるままに受診した不妊外来の帰り、チャリでぐいぐいと己の道を行く美紀を見つけてタクシーを降りる華子の、文字通り正規ルートから「降りた」瞬間。華子は美紀の家から初めて街を「歩いて」帰るのだ。
美紀と理央のダサくてとびきり楽しそうなチャリのニケツ。
そのシーンと対になるような、ラストの華子と逸子の三輪車での二人乗り。初めてのパンツスタイルと三輪車が、華子のよちよち歩きの自立を象徴している。華子は自分で車を運転するようにさえなっている。
正直、華子が義母からひっぱたかれたシーンで快哉を上げたくなって、ここで終わっても十分じゃないか、これ以上は蛇足では、と思ったくらいだったのだけれど、全然そんなことはなかった。少々都合がよすぎるきらいはあっても、確かにその後の希望を示してくれた。
幸一郎のソツのなさに全振りしたキャラクターや、絶妙なタイミングで繰り出される頭ポンポンの悍ましさもすごい。
幸一郎は、美紀の言うように都合の良いホステス役としてだけ美紀を見ていたわけではないのではないか。けれど彼は自分の求めるものを直視するより「貴族」としての殻に自分を沿わせることを優先した。
彼は父や祖父よりはそれが殻に過ぎないことに自覚的ではあったのだろう。しかしその虚しさを無視できるくらいソツがなさすぎた。
華子のしたことは幸一郎の人生を狂わせはしないし、貴族の世界は揺らがない。
それでも華子は確かに華子を数十年にわたってからっぽにしてきた世界に一矢は報いてやったのだ。
華子の存在が、幸一郎のソツのない人生にほんのわずかに残る傷になるといいと思う。いつか耐え難い虚しさに襲われた時、それに導かれて自分を生きられる日も来るかもしれない。
元妻を、別れてなお下の名前で気安く呼び捨てにしているようでは、頭ポンポンから進歩がないけれど。
華子は離婚にあたって貧困に直面したりはしないし、お姉さんが味方になってくれそうでもある。バイオリニストのマネージャーというハイソな職も得て、「貴族」の世界から外に出るわけではない。それでも彼女の視野はひとまわりかふたまわり、大きく広くなったはずだ。
中盤あたりまで、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」以来のエグさに白目を剥きながら観ていたのだけれど、この映画にはかぐや姫には訪れなかった救済があったと思う。
かぐや姫はひとりだったけど、華子たちはひとりではない。月へ帰らず土の上で生きるには、手をつなぐ相手が必要だ。それがほんの一瞬交錯するだけのものでも。
良い映画は普遍的な面白さがありながらも個人的な領域に触れてくれるものだと書いたけれど、この映画は私の個人的な領域に見事に刺さってしまい、観終わった時はなんだかよくわからないくらい泣いていた。
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映画鑑賞後、山内マリコの原作小説も読んだのだけれど、こちらは正直文体が好みではなく、あまり入り込めなかった。
映画と小説の表現形式の違いが引き立っていたのは面白かったと思う。
小説の形式なら自然でも、実写の映像だと露骨すぎてコントみたいになりそうなところ(華子の結婚式のシーンとか)がうまくパラフレーズされていて、映像ならではの語りになっていたなと思う。