ねこもり

ちょび髭ねこの日記

「めんどい」と「しんどい」のあいだ

 

だいたいにおいて日々「めんどいな」と思いながら食事をして風呂に入って掃除を(たまに)したりしているのだけれど、2つ続けて生活がめんどくさいという記事を書いてみて思った。

これは「めんどい」というより「しんどい」なのではないかと。「めんどい」という言葉で自分のしんどさをごまかしてはいないかと。

 

私は幸い薬がよく効いて一人暮らしが継続できる程度には安定しているが、うつの症状である意欲のなさや易疲労性や億劫感は常にべったりと背中に貼り付いている。これらを「めんどい」のひとことで括ってしまうのは、病気に対する軽視が含まれてはいないか。

私は生まれや育ちの色々な要因からつい自虐的になりがちで、自分のやっていることはしょうもないことだとエクスキューズをつけないと言えない傾向がある。「めんどい」という言葉も自分のしんどさを投げやりで怠惰な言葉でごまかすものだったかもしれない。

このめんどくささは「しんどさ」なのだと認めてやる方が自分にやさしいことのように思う。

 

「めんどい」も時には良いが、これからはしんどいことは「しんどい」と言ってみよう。

ただ、お風呂は昔からサボりがちだったので、うつが良くなってもお風呂に関しては「めんどい」と言っているような気もする。

人間用総合栄養食が欲しい話

 

風呂がめんどくさいに続いて食事がめんどくさい話です。

 

私は一人暮らしなので全ての家事をひとりでこなしている(こなせてないものもまあまあある)。

食事にまつわることは家事の中でも割合が大きく、調子が悪くなると影響が出やすいことのひとつだ。

うつ状態が悪化すると「咀嚼がめんどくさい」「レンジでチンするのがめんどくさい」「袋の封を切るだけでせいいっぱい」という状態にしばしばなり、そうなるとゼリー飲料か菓子パンくらいしか食べるものがなくなるのだが、やはりカロリーだけでは体の健康は保てない。

食器洗いも当然できなくなるので、なんとか食事だけは作れても洗い物がどうしてもできず3日ぶんの食器がシンクに山積み……なんてことにもなりがちだ。

そのため調子が悪くなってきたらさっさと調理は諦めて洗い物の必要ない簡便な食事に切り替えることにしている。

 

ところで犬や猫用のペットフードには総合栄養食と一般食という区分があるのをご存じだろうか。

総合栄養食とはそれと水だけで必要な栄養素が摂れて健康が保てるという基準を満たしたフードのことである。

一般食は基準を満たしておらず補食、おやつの位置付けだ。

鳥やハムスターなどはわからないが、犬猫の食事には基本的にこの総合栄養食が推奨されていて、うちの猫にももちろん総合栄養食を与えている。総合栄養食のカリカリ(ドライフード)と新鮮な水、たまに液体おやつ、だけでそこそこ健康に生きている。

 

猫と暮らすようになって、また躁うつを発症して生活がままならなくなってつくづく思うのだが、人間用の総合栄養食カリカリが欲しい。すごく、欲しい。今すぐ、欲しい。

そこそこの健康を保てるだけの栄養素が含まれ、調理が必要なく、常温で長時間保存でき、嗜好性にもそれなりに配慮されている。体質や環境によって低カロリーとか腎臓機能に配慮とか毛玉排出とかを選ぶこともできる(毛玉排出は人間用には要らない、たぶん)。素晴らしいではないですか。

うつ病の療養中だけでなく、体力や認知機能の低下している人や多忙な人にもぴったりだ。

むしろなんでないの。

 

 

今のところ最もそれに近いのはベースブレッドだろうか。

封を切るだけで食べることができ、なんかいろいろ栄養が入っている。味はパンだと思うとおいしくはないが、こういう食べ物だと思えばまずくはない。1ヶ月ほどは常温で保存できる。

 

今、ベースブレッドを定期購入しているのだが、しばらく利用してみての感想は「可もあり不可もあり」という感じだ。

良いところは、何より手軽に食べられるのと、同じ「封を切るだけ」の菓子パンなどで済ませるよりは栄養が摂れる(気がする)こと。家に届けてくれるので買い出しというこれまた体調に左右される家事の手間が省けること。

 

不便なのは、定期購入なのと賞味期限が1ヶ月程度なので、一定期間で食べ切らないとならず、たとえば災害用や調子を崩した時用などの備蓄にはできない点だ。またさすがに1日3食これだけというわけにはいかない、割高だし飽きが来る。

猫は人間ほど味覚が発達しておらず、毎日同じものでもさほど苦痛ではないようだが、人間用となるともう少し味や食感のバリエーションがないと厳しいと思う。

 

それでもしんどい時、短期的に菓子パンの代わりにもう少しマシなものを、という時の選択肢としてはベターといったところだ。

 

ベースブレッドのアフィリエイト記事みたいになってしまった。回し者ではありません。

私が望むのは、ベースブレッドのような方向の食品がもっともっと進化して、猫のカリカリくらいの保存性と機能性と味のバリエーションを備えてくれるようになることです。ついでに値段も安くなってくれると嬉しい。

 

そうは言っても作りたてのごはんおいしいよね、生鮮食品からしか摂れないものってあるよね、と思うのだけれど、うつ状態の悪化時は非常時であるからして、いつでも悪化に備えて買い置きしておける総合栄養カリカリがとても欲しいのだ。

 

今のところまだそこまでのものには出会えていないので、ダメな時はベースブレッド、ちょっとダメな時はレンジでチンするだけの冷凍食品、ちょっと元気な時はごはんのまとめ炊きと簡単なおかず、という運用でやっている。

 

 

ちょっとダメな時の冷凍食品やちょっと元気な時の簡単調理についてもおいおい書こうと思います。

今日もお風呂が面倒くさい

 

入浴が苦手だ。

 

 

うつが悪化してまずできなくなるのが入浴である。

生活とは判断と決断の繰り返しであり環境の変化(自然に起こるものと、自ら起こすものと)の連続である。

入浴はそれらが濃縮された工程で、うつ持ちにとっては日常動作の中でも難渋することの多いものではないだろうか。

 

入浴するにはまず入浴しようと決断せねばならない。

うつ病の症状のひとつに「決断困難」というのがあるが、まず立ち塞がるのがこの壁である。

 

明日予定あったっけな、外出する予定がなければさぼっちゃっていいかな、でも風呂は毎日入った方がいいよな、今朝は寝汗かいたしな、いや毎日風呂に入るべきという観念こそ我々が乗り越えるべき悪しき社会規範ではないか、等々、決断を阻む思考は止まるところを知らない。

風呂に入るメリットはよくわかっている。清潔になるし体もあたたまる、寝つきだってよくなるだろう。30余年生きた体は寝ているだけでも代謝を行い確実に汗やら垢やらを生産している。

しかし体が動かない、夜は刻々と更けていく。睡眠時間は確保したい、今日のところはこのまま寝ちゃって明日の朝さっとシャワーを浴びることにしようか。無理はよくない。

いやきっと朝はふとんから出られないに違いない、風呂に入ってなくて自分が汚い気がするという理由で外出できなくなることは避けたい。どう考えても夜のうちに入っておくのが正しい。

でもどうせ外出もしないのに風呂に入ることにエネルギーを割くのは資源の無駄遣いというものではないか。低燃費で生きていくことを運命づけられた低収入うつ病者は風呂に入る回数だって抑えてガス代を節約すべきだ。その方が地球環境の負担も減る。

 

入浴を決断するまでにめぐる思考はざっとこんなものだ。堂々たる堂々めぐりである。そしてどっちかというと入らない方に傾きかけている。実際に入らないこともしばしばだ。

 

ほとんどやけくそな堂々目売りの末に決断できたとして、次に立ちはだかるのは環境変化の壁である。

冬であれば寒い浴室に移動するつらさを想像するとわかりやすいが、冬でなくても入浴には皮膚を取り巻く環境変化が盛りだくさんだ。

 

まず服を脱ぐと体感温度が変わる。

体が濡れる感覚、泡に包まれる感覚、泡が流れていく感覚、湯に浸かる感覚、冷えた体があたたまっていく感覚、次々と変化する環境に体はついていかなければならない。

これが疲れるのである。ものすごく疲れるのに、自ら変化を起こして工程を進めなければ終わることができない。

 

私はこの工程に関してはひたすらスイッチを切って淡々と義務的にこなす、以外の対処法を見つけられていない。途中でめんどくささに追いつかれると風呂の中でも蹲ってしまいそうな気がするので、自動運転モードのように毎回同じことを同じ順番で繰り返している。だから「今日はしんどいからシャンプーはやめとこ」とかいうことはできない。

風呂には入ったけど髪は洗えなかった、というつぶやきを目にしたこともあるから、この辺りは人それぞれなのだろう。

 

 

上がってからもまだ工程は終わらない。

最難関といってもいいのがドライヤーだ。

達成感と疲労感とともにおふとんになだれ込みたいのに、髪が濡れている。ドライヤーまで一気にやってしまわなければ横になることさえままならない。

ドライヤーの性能にもよるだろうけれど、最低でも5分ほどは、立ちっぱなしで、両手を上に挙げて動かし続けなければならない。乾いてきたら位置を変えたりと微調整も欠かせない。

しかも中途半端に乾いた髪は気持ち悪い。完全に乾かして初めて、おふとんダイブの栄光が得られるのだ。

料理だって食器を洗うまで終わってないといえば終わっていないが、食器洗いはいったん立ち止まってもそう大きな害はない。しかし入浴は別だ、服を脱いだ瞬間から髪を乾かし終わるまで、どんなに疲れても途中離脱ができない。こんな大変なことが他にあるだろうか。

 

 

これらすべてが脳裡を過り、うわあめんどくさいやめたい、という思考で頭がいっぱいになるのを宥めすかし、ようやく入浴に成功したところで、得るものは昨日と同じに戻った体と大きな疲労だけだ。前者はマイナスをゼロにしただけだし、後者は行動の報酬にはなりえない。

ああ疲れたな、が感想の時点で習慣化には大きな弊害があるといっていいだろう。

 

もちろん、ああ気持ちよかったな、がないわけではない。ベタついていた髪がサラサラになり、スキンケアをした肌がしっとりしている、その良さを知らないわけではない。

しかし割合でいえば、疲れたな、が8割なのだ。いくら気持ちよくても、清潔さを保ったという自尊心をくすぐっても、疲れたな、には叶わない。

 

 

毎日入浴している、というのはそれだけで偉大なことだと思う。そして毎日入れない人が今日だけは入れたということもまた、偉業である。

ブログを開設しました

ちょび髭ねこです。

SNSよりもうちょっとまとまった文章を書きたいと思い、ブログを開設することにしました。

 

病気を持ちつつ息も絶え絶えな日々の暮らしのこと、観た映画や読んだ本の感想、何年一緒にいても毎日新鮮にかわいい猫のことなどを書いていきたいと思います。

 

「ねこもり」というタイトルは、「猫」と「森」という好きなものを組み合わせたものであり、寝るのが大好きで家にひきこもっているのが身上の自分をあらわしたものでもあります。

 

躁うつ病双極性障害)を発症して5年ほどになります。ただ暮らすことがひどく重労働になり、労働から遠ざかったり近づいたり、薬の力に感激したり翻弄されたりしながら暮らしています。

ふだんの生活は、病気の症状とどうつきあいどう共にあるか、病気にやられながらどう生存するか、ということが中心にならざるをえませんが、そんななかでも調子のよい時を狙って梅干しを漬けたりスコーンを焼いたり庭仕事をしたり、といった小さな愉しみを逃さずにどう生きる糧にしていくか、という闘いの日々でもあります。

 

ささやかな生き延びの記録として、ゆるく続けていきたいと思います。