ねこもり

ちょび髭ねこの日記

今日もお風呂が面倒くさい

 

入浴が苦手だ。

 

 

うつが悪化してまずできなくなるのが入浴である。

生活とは判断と決断の繰り返しであり環境の変化(自然に起こるものと、自ら起こすものと)の連続である。

入浴はそれらが濃縮された工程で、うつ持ちにとっては日常動作の中でも難渋することの多いものではないだろうか。

 

入浴するにはまず入浴しようと決断せねばならない。

うつ病の症状のひとつに「決断困難」というのがあるが、まず立ち塞がるのがこの壁である。

 

明日予定あったっけな、外出する予定がなければさぼっちゃっていいかな、でも風呂は毎日入った方がいいよな、今朝は寝汗かいたしな、いや毎日風呂に入るべきという観念こそ我々が乗り越えるべき悪しき社会規範ではないか、等々、決断を阻む思考は止まるところを知らない。

風呂に入るメリットはよくわかっている。清潔になるし体もあたたまる、寝つきだってよくなるだろう。30余年生きた体は寝ているだけでも代謝を行い確実に汗やら垢やらを生産している。

しかし体が動かない、夜は刻々と更けていく。睡眠時間は確保したい、今日のところはこのまま寝ちゃって明日の朝さっとシャワーを浴びることにしようか。無理はよくない。

いやきっと朝はふとんから出られないに違いない、風呂に入ってなくて自分が汚い気がするという理由で外出できなくなることは避けたい。どう考えても夜のうちに入っておくのが正しい。

でもどうせ外出もしないのに風呂に入ることにエネルギーを割くのは資源の無駄遣いというものではないか。低燃費で生きていくことを運命づけられた低収入うつ病者は風呂に入る回数だって抑えてガス代を節約すべきだ。その方が地球環境の負担も減る。

 

入浴を決断するまでにめぐる思考はざっとこんなものだ。堂々たる堂々めぐりである。そしてどっちかというと入らない方に傾きかけている。実際に入らないこともしばしばだ。

 

ほとんどやけくそな堂々目売りの末に決断できたとして、次に立ちはだかるのは環境変化の壁である。

冬であれば寒い浴室に移動するつらさを想像するとわかりやすいが、冬でなくても入浴には皮膚を取り巻く環境変化が盛りだくさんだ。

 

まず服を脱ぐと体感温度が変わる。

体が濡れる感覚、泡に包まれる感覚、泡が流れていく感覚、湯に浸かる感覚、冷えた体があたたまっていく感覚、次々と変化する環境に体はついていかなければならない。

これが疲れるのである。ものすごく疲れるのに、自ら変化を起こして工程を進めなければ終わることができない。

 

私はこの工程に関してはひたすらスイッチを切って淡々と義務的にこなす、以外の対処法を見つけられていない。途中でめんどくささに追いつかれると風呂の中でも蹲ってしまいそうな気がするので、自動運転モードのように毎回同じことを同じ順番で繰り返している。だから「今日はしんどいからシャンプーはやめとこ」とかいうことはできない。

風呂には入ったけど髪は洗えなかった、というつぶやきを目にしたこともあるから、この辺りは人それぞれなのだろう。

 

 

上がってからもまだ工程は終わらない。

最難関といってもいいのがドライヤーだ。

達成感と疲労感とともにおふとんになだれ込みたいのに、髪が濡れている。ドライヤーまで一気にやってしまわなければ横になることさえままならない。

ドライヤーの性能にもよるだろうけれど、最低でも5分ほどは、立ちっぱなしで、両手を上に挙げて動かし続けなければならない。乾いてきたら位置を変えたりと微調整も欠かせない。

しかも中途半端に乾いた髪は気持ち悪い。完全に乾かして初めて、おふとんダイブの栄光が得られるのだ。

料理だって食器を洗うまで終わってないといえば終わっていないが、食器洗いはいったん立ち止まってもそう大きな害はない。しかし入浴は別だ、服を脱いだ瞬間から髪を乾かし終わるまで、どんなに疲れても途中離脱ができない。こんな大変なことが他にあるだろうか。

 

 

これらすべてが脳裡を過り、うわあめんどくさいやめたい、という思考で頭がいっぱいになるのを宥めすかし、ようやく入浴に成功したところで、得るものは昨日と同じに戻った体と大きな疲労だけだ。前者はマイナスをゼロにしただけだし、後者は行動の報酬にはなりえない。

ああ疲れたな、が感想の時点で習慣化には大きな弊害があるといっていいだろう。

 

もちろん、ああ気持ちよかったな、がないわけではない。ベタついていた髪がサラサラになり、スキンケアをした肌がしっとりしている、その良さを知らないわけではない。

しかし割合でいえば、疲れたな、が8割なのだ。いくら気持ちよくても、清潔さを保ったという自尊心をくすぐっても、疲れたな、には叶わない。

 

 

毎日入浴している、というのはそれだけで偉大なことだと思う。そして毎日入れない人が今日だけは入れたということもまた、偉業である。